2014年2月27日木曜日

内閣総理大臣臨時代理青木幹雄


内閣総理大臣臨時代理青木幹雄
2000年4月3日 - 2000年4月5日

 瓦解する経世会であったがその動きは一人の男の動きによるものだ。

 松田 賢弥 『逆臣 青木幹雄 [単行本]』講談社(2008/6/27)pp.23-24
    青 木の主・竹下は、直弟子・小渕の死がよほど身にこえたえたのか、小渕の後を追うように、小渕の死から1ヶ月後の2000年6月19日に亡くなった。青木は 竹下が死んだとたんに、東京・永田町の議員会館裏手にある秀和永田町TBRビルの竹下の残した「遺産」を乗っ取っていく。
竹下の後継者としてとんでもない化け物が誕生した。派閥+参議院を掌握していた。その43年前、青木と森はその頃から総理の夢をみていたのだろうか。

1957年(昭和32年)10月27日午後1時半 早稲田大学創立75周年・早稲田大学雄弁会創立50周年 「学生模擬国会」in 大隈小講堂

青木にとって森は一年後輩、小渕は三年後輩の早稲田雄弁会の仲間だった。

松田 賢弥 『逆臣 青木幹雄 [単行本]』講談社(2008/6/27)p.99
目を瞠るのは、そこに名を連ねる面々。まず「議会日程」の開会式の挨拶は早大雄弁会幹事長・青木幹雄。祝辞は自民党総裁・岸信介、社会党委員長・鈴木茂三郎。
 本会議は事務総長報告として、事務総長・森喜朗、次いで施政方針演説説として内閣総理大臣・青木幹雄と記されているのだ。
 青木は総理とともに、早稲田党(約85名所属)の総裁に就いていた。
やはりこの雄弁会は政治に対するコネが強いなと思わせられる。このときから政治を勉強というか実践している強みは出ているなと感じる。43年越しの夢は三日で終わるわけだが、それから清和会(森)+経世会+参議院を操る闇将軍が誕生した。早稲田雄弁会を使っていたのは竹下も同じではある。小渕や森は苦学生であった時、青木から飯をもらっていた。二人はそういう関係もあって頭も上がらない。じわじわと相手が死ぬのをゆっくりと待つ。待ちの政治家として、主君が死んでから乗っ取る、松田賢弥はよくみているなと思う。

 野中が青木を官房長官にあげるように小渕に進言した。前述の通り、小渕は青木には頭が上がらないし、信用が出来ないという事で懸念を示していたが、野中は竹下の下でやってきた青木をここはあげるべきだと青木を押した。参議院議員から官房長官は異例である。竹下の裏の幹部としてとんでもないスピードで権力の階段を駆け上がった野中と青木であるが、二人は後にぶつかることになる。

松田 賢弥 『逆臣 青木幹雄 [単行本]』講談社(2008/6/27)p.23
小渕の病室に入り、小渕と面会できたのは青木一人だった。その時も面会っできた政治家は青木しかいない。情報を一手に握った青木は、その直後から、矢継ぎ 早に情報操作を行なっていく。まず小渕の病状を「過労のために緊急入院」(4月2日の会見)と偽り、「(小渕から)青木長官が首相臨時代理の任に当たるようにとの指示があった」(4月3日)と真っ赤なウソをついたのだった。小渕の病に乗じて、自身が権力の中枢で采配をふるおうとしたのだ。
情報戦という意味で、野中はそれを攻撃に使っていたが青木は違う。常に握って出さない。その後五人組で密室で総理を決める所も、情報を握る事によってその流れにまで上手くもっていっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿