2014年2月24日月曜日

軍師松野頼三-党内運営-


2003年

 かつて福田派から三木にうつり、軍師として活躍した男がいた。中曽根の誘いを断り、青木がついたことも要因であるが、政権運営の基本を小泉は松野から学んだ。The Journalの田中良紹の「国会探検」にそれがのっている。
 http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2006/09/3.html
 小泉純一郎と中曽根康弘(3)

 (略ry)
  経歴から、反田中、反中曽根で動いた政治家という事が出来る。
 小泉が中曽根ではなく松野を後見役に選んだ事は、小泉が反田中、反中曽根の政治を行う意志を表明した事になる。
 田中角栄の力の源泉は旧建設省、旧郵政省、旧自治省を支配したことにある。
 道路建設は政治家にとって最大の利権、郵便局ネットワークは自民党最大の集票マシーン、そして巨額な郵便貯金は第二の予算として政治に組み込まれている。それらを支配することで田中は自民党を支配し、その流れをくむ最大派閥はそれを踏襲してきた。
 (略ry)
 1976年、「三木おろし」の真っ只中で、三木は松野を幹事長に据えようとして党内の猛反発に遭う。その時、政調会長になるはずの内田常雄を幹事 長に、総務会長になるはずの桜内義雄を政調会長に、そして松野が総務会長に就任すると反対はなくなった。三役の顔ぶれは同じでもポストを変えれば反対は消 える。松野はそう教え、小泉はそれを実行する。
 小泉政権の一期目、小泉には山崎拓幹事長以外に心の許せる相手はいなかった。そこで反小泉派は山崎の失脚を画策する。2003年、山崎幹事長の再 任を認めないという党内の強い意向に対し、小泉は安倍晋三を幹事長に抜擢し、山崎拓を副総裁に据えた。安倍は名目だけの幹事長であり、山崎副総裁は事実上 の幹事長留任なのだが誰も反対できなくなった。
 (略ry)
投稿者: 田中良紹 日時: 2006年9月12日 00:23
三木武夫という政局を理解した人が昔いた。その軍師であった松野の知恵を小泉は使った。三木武夫はロッキード事件で、田中角栄を攻撃した。しかし、中曽根康弘は逃げ延びた。三木、松野ができなかった田中、中曽根という二つの流れを攻撃することに小泉は成功した。松野は小泉のことを実の息子のように可愛がっている。小泉純一郎の父である小泉純也と松野頼三は親しかった。あの角福戦争からかなりの年月が経っていた。

 小泉に政策がないと批判があるが、経世会を殺すだけで充分な価値がある。総理でもないのに政権を私物化しようとする。自派閥の中でそういう仕組みをやるならまだしも、政策決定などに影響を及ぼしすぎる。

 小泉は福田というより、三木と松野の後継者であったといえる。

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