2014年1月29日水曜日

山崎首班工作事件(幻の三木内閣)

1948年(昭和23年)3月10日-10月15日
芦田内閣

芦田内閣末期の事


國弘 正雄 『操守ある保守政治家 三木武夫 [単行本]』たちばな出版 (2005/11)  p.47
マッカーサーが三木さんに後継総理になるように求めたことがある。片山哲内閣で通信大臣を務めた後、国民協同党の中央委員長をやっていた時にマッカーサーに呼 ばれ「三木、今度はお前がやれ」と言われたという。この話は三木さんから何度も聞いた。三木さんは「アメリカにとって傷がつきますよ」と答えたという。
山崎猛を首班にしようとするが失敗。
山崎首班工作事件のことである。

北 康利 『白洲次郎 占領を背負った男 下 (講談社文庫) [文庫] 』講談社 (2008/12/13) p.57
実はこのとき、民政局からアプローチを受けていたのは山崎だけではなかった。当時の国民協同党の若き党首・三木武夫(後の首相)に対しても、ケーディスは秋 波を送っていたのである。”小党の党首にすぎないから”ということで三木は断ったが、ケーディスは吉田以外なら誰でもよかったに違いない。

山崎猛なら、衆議院議長経験者の首相。

三木武夫なら、史上最年少の首相。

バルカン三木の名前の通り、この若さで派閥の領袖とは恐るべし。
http://showa.mainichi.jp/news/1947/03/post-0c5e.html
毎日新聞社
昭和毎日
昭和のニュース

1947年03月08日
協同民主党と国民党が合同して中道主義政党、国民協同党が結成された。修正資本主義を掲げ、協同主義による日本経済の再建をめざした。書記長は三木武夫氏。発足当初は衆参両院で78議席を確保し、自由党、進歩党、社会党に続く第4党だった。片山哲内閣に、三木武夫氏が逓信大臣、笹森順造氏が国務大臣として入閣。しかし、1949年1月の総選挙で当選者は14人と激減。翌年、民主党の一部などと合同し国民民主党となった。

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