2014年1月29日水曜日

河野一郎新党


1960年(昭和35年)7月
河野一郎が新党を立ち上げようとした時の話。
はっきりと河野に対しても物を言う中曾根に児玉が感心している。


有馬 哲夫 『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』文藝春秋 (2013/2/20)pp.242-243

 河野はその場にやってきた重政誠之と中曾根康弘に、ついてくるのは何人いるかと尋ねた。重政は「まあ、あります」と曖昧な答えをした。これに対して中曾根は「ほんとうについてくる者は十名そこそこでしょう。泣き泣きついてくるのは七、八名いますかな」と思うところを正直に述べた。河野は顔色を変えて「中曾根君、ちょっと用がある」と廊下へ連れ出して、そのあと追い返してしまった。  児玉はこのときの中曾根を次のように褒めている。

 このとき私は、中曾根氏の人物を見たと思った。私はともかくとして、永田、萩原両氏は当時河野さんのブレーンでもあり、また後継者だった。その前で敢然と河野さんの間違いを指摘してはばからず、はっきりと情勢の判断を下している。チョット普通の人間ではできないことだと思った。
(略ry)
 渡邉が誰からこの情報を得たのかは明らかだ。それは中曾根しかいない。彼は河野に追い返されたあと、河野が必ず大野に協力を要請すると思って、渡邉を 使って情報をリークしたのだろう。そうすれば、河野の脱党計画をつぶし、自分が道づれになることを阻止できると考えたのだろう。
野党にいけば、自分の芽はなくなる。すでにこの時から中曾根は自分が生き延び出世することを考えている。中曾根は渡邉を使い河野を出し抜いている。彼がここから権力の階段をのぼっていくのは当然ともいえる。
その後、池田の裁定で佐藤栄作が総裁になる。

1965年(昭和40年)7月
そんな中曾根を警戒する河野であったが死は突然やってきた。
http://blog.kajika.net/?eid=844917
「中曽根君を除名する!」 渡部亮次郎

2008.07.06 Sunday name : kajikablog
河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らだ「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。
(略ry)
中曾根にとって実に良いタイミングで亡くなる河野一郎。


さいとう たかを、早坂 茂三、 戸川 猪佐武 『歴史劇画 大宰相(6) (講談社+α文庫) 』(1999/8/19)p.8
「洋ちゃん、反田中は結構だ。ただし、党内でやれ。新党は難しい。君のオヤジでもできなかった。初めはよくても、結局は雲散霧消する羽目になるぞ。考え直しなさい」
 田中角栄が河野洋平に言った言葉。
思うに利権やスタイルなどをみるに、河野と田中は非常に近い気がする。新自由クラブは、所詮田中別働隊であった。

0 件のコメント:

コメントを投稿